
サイクリングの服装は、体感面(快適さや便利さ)で語られがちですけど、心理面への影響もありますね。そこのとこについてです。
日常と非日常
サイクリングは、私は私服派なんですけど、部屋着のまま何十キロも遠くに行くと「やべぇ、こんな遠くに来ちゃった」感がありますね。普段の日常が、ありえない遠方とコネクトした感じ。あのフワッとした感じがとても好きです。
サイクリングウェア派の人はどうなんでしょう。レーパンやジャージに着替えてる時からもう非日常なんでしょうか。そうするとロングライド全体が非日常なわけで、日常は日常、サイクリングはサイクリング、そういった、ケジメみたいなのがついてるスタイルなのかもしれませんね。
地元民の雰囲気で…
これはとある方からのコメントの抜粋です。

半袖短パンで「肩肘張らず頑張ってる感を極力出さず」地元をフラフラ散歩してるだけです的な雰囲気で知らないとこまで毎週漕いでます。
このコメント、本当に良いコメントだなって思いました(ありがとうございます!)。
サイクリングで遠出するのに、なぜ地元民の雰囲気が必要なのか、うまく説明できませんけど、でも、なんとなく、私も昔そんな頃があったような気がします。
私が学生だったころ、青春18きっぷであちこち旅行するのが好きでした。夏場は半袖短パンでサンダル履きでリュックをかついで、歩き疲れてくると、よく銭湯に入りました。スーパー銭湯じゃなくて、地元の普通の銭湯ですね。そこで湯船につかって、地元の人達が会話しているのを聴くのが、なんとなく好きでした。
いただいたコメントで、ふと、そんな昔が思い出されました。
実存的断絶
旅先の銭湯の湯船で地元の人の会話を聴いていた当時の私は、もしかしたら、考現学的な、フィールドワーク的な気分に浸っていたのかもしれません。アカデミズムを気取った、いけすかないキザ野郎ですね。
でも実態はたぶん逆で、どこを旅しても、結局自分は他人で、どこの誰とも人生が1mmも交わらない、ってことに無意識の悲鳴をあげてたんだと思います。小さな銭湯に行くのは、そういう根無し草的な心情を回復したかったんでしょうね。もちろん、何も回復しないわけですが。
極論かもですが、サイクリストも似たような存在って気がします。サイクリストも、どこに行っても他人なわけです。ロングライド先で綺麗な景色を見たり、美味しいものを食べたりしても、よそ者のままです。どこまで行っても実存的な関係性を構築できない存在、それがサイクリストです。
そういう実存的な断絶を、少しでも回復しようとする所作が『地元をフラフラ散歩してるだけです的な雰囲気で』なのかな、なんて思うと、やっぱり共感しちゃいますね。
一方、そんな断絶なんて微塵も気にせず、ド派手なジャージでサングラスをかけて、ロードバイクで爆走するのも、情緒性がブッ飛んでて、清々しいのかな、なんて思ったり😂
などなど、服装の心理についての書き散らかしでした。
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というわけで、服装については終わり!!
ありがとうございました。
(おしまい)